ケチをつける諸兄

流行る飲食店には、なにかしらポイントの高い部分がある。
味にしろ、接客にしろ、抜きんでている部分が必ずある。

抜きんでている部分を見極め、自分の味覚なり経験なりに合わせればいい。
自分に合うならそれでいい。表現者なら表現すればいい。
合わないなら黙っていればいい。聞かれたら答えればいい。

もちろん、数ある流行っている店の中には、汎用性の高い立地条件がいいだけの店もある。
だが、やはりそれなりにポイントの高い部分はあり、情報が氾濫している時代なればこそ、存在理由はある。

ネット人口がどれだけ増えても、ネットで情報を検索しない人は確実にいるし、その人々の情報媒体はアナログであることが多い。アナログ情報は何年か前の雑誌だったりすることもあるが、情報の取捨選択は本人の意志であり、必ずしもすべての情報が最新である必要はない。

「名物に旨いものなし」と言われるが、観光地の名物で旨いものは数多くある。
街興しのようにあとから人工的に加えられた名物ではなく、旧来から存在する名物に触れるのはいいものだ。
そこに育まれてきた文化的背景を感じ取るのは喜びにもなる。理屈じゃなくて、触れてみて感じ入る。そこに潤いがある。

よくあることなのだが、観光地や、有名店に行ったとどこかに書いたとする。または会話の端に出たとする。
そうすると必ずいるのが「そこより美味い店がある」とか、書き込んだり割り込んでくる諸兄。
そういう諸兄の特徴と言えば、その店またはそのメニューを絶対に書かない。つまり思わせぶりなだけである。
そういう思わせぶりは、情報が氾濫するようになってかなり増えた。「自分だけが知ってます」みたいな優越感に浸りたいのだろうが、私はそういう諸兄の味覚は信じないことにしている。

経験値に対して謙虚になるのは、情報が氾濫すればするほど当然のことだと思える。
例えば限定メニューが豊富な店で、限定メニューしか食べない諸兄がいるが、それに対してはいささか疑問があるのが今日現在の私の考えだ。

え、おまえが情弱なだけだろうって?それは失礼(笑)

肉を食らうあれこれ

先月は何故か肉食の多い月で。
お誘いがあって行ったお店だったり一人焼き肉だったり。
そんな諸々を徒然に。

僕は基本的に食べ物にA級もB級もないと思っている。
あるのは、旨いものか不味いものである。

150円のシュークリームが旨いこともあれば、1万円の寿司が不味い場合もある。対価に含まれるものの中には、値段相応のホスピタリティがあるはずで、店に行く以上、期待値の中にホスピタリティは含まれる。

何度か繰り返していく店の場合、その店のホスピタリティは意識の中に織り込み済みである。そこにあるメニューの中身は見当が付いているだろうし、今日は何を食べようか、何を飲もうかと考えながら店に向かう。

そしてその食事は当然のことながら、過度の期待はなくむしろ安心感を伴う食事となる。これはモノを食べるに当たって重要なポイントの一つである。

たまにしか行かない店の場合、いわゆるハレの日の食事だった場合が多いのかもしれないが、記憶を辿ったときに好ましい記憶があれば味も甦ってくるし、「ああ、また行きたい」と思うであろう。そしてそういう店を再訪した場合、初訪とは違う記憶の上書きによって、次回の訪問予定も変わってくるだろう。

本来なら旨いものが訪問店にあればそれでOKなのだが、そこにホスピタリティを上回る旨いものという条件が加味されれば当然回数は増える。ホスピタリティは不快にならない程度あればよい。

問題は初訪の場合だ。初訪というのは、ただでさえ緊張感が漂うというマイナス要因を店に対して持つ。緊張感を打破するような期待感がそれを上回ってこそ、旨いものを喰う準備になる。

ご招待いただいたときに、前知識はある程度仕入れた方がいいのかもしれない。礼を欠かない程度にその店の最低のルールは知っていた方がいいだろう。

しかしその情報が、ベールの内側だった場合、さらに外に出ている情報が一方向の情報だった場合、それは宗教団体と変わらなくなる。ある一定の方向しか向かない、そんなお客ばかりの店はよほどの興味がわかない限り、敬遠してしまう。

もっとそういうことを許せる、広い心を持って楽しめればいいのだが、生憎とそういうバランスシートの上に僕は乗っていない。そこには、借りも貸しもなく旨いものを喰わせようとする心意気があって欲しいから。

店側としては、緊張感を解くことは重要なファクターだと思う。よく言われるガンコ親父の店でさえ張り詰めた緊張感はあるものの、それなりにモノを食べる環境にはあって、それを醸し出すのは周囲の客であったり、店の造りであったり、そしてその緊張感を上回る旨いものであると言えよう。

巷間言われる、味がよくわからなかったほどの緊張感は、例えば前知識の肥大による緊張感であったり、経験の少なさによる緊張感であったり、独特の作法による緊張感だったりする。

前段のどれもが重なったら、それは旨いものを喰う環境とはならない。たとえそこで最高級の肉の部位が出たとしても、やはり食べる楽しみとしての期待値は下がる。

そういうことを気にしないで食べられる、言い換えれば環境に左右されないで食べられるというのは、実験室で白衣を着て食べても大丈夫な人なんだろうと思う。

僕は、大丈夫な人である部分も持っている反面、シチュエーションもこだわるタイプだと思っている。モノを喰うと言うことは、食べるモノ自体が旨いことは大事で、次のファクターとして誰と食べるかが重要で、そしてそれを演出するギミックが組み合わさるものだと思っている。

旨いものを喰わせようとする心意気は大事なことだと思う。客を限定するなら、驕慢にならずに真摯に向かってくれればいいのにと切に思う。

ま、肉に限った話ではないんだが。

外メシシリーズ-8月第五週Part2-

 8月30日
昼頃までうだうだ。3周年のお祝いに花を買わなきゃ。花をアレンジしてもらっている間に昼飯

140830_154122

ラーメン普通+替え玉バリカタ。先日の通り出汁感ばっちり。麺の硬さの違いも楽しめる構成。
3周年は馬鹿騒ぎ。些か疲れる。帰りに小腹が空く。いつも小腹が空く。
柏にある店の3号店。

140830_201725

カシミール。ホールの女性がなっちゃいないが、味は柏と同じ。近くなって嬉しい。

“外メシシリーズ-8月第五週Part2-” の続きを読む