ラーメンに関わる言葉

言葉はその時代時代で変質していく。
同じ言葉なのに、意味が変わってしまう。
元は違う言葉なのに、同義として使われてしまう。

仕方のないことなのかもしれない。
しかし、その変質した言葉についていけないの人間がいるのも事実。
私はラーメンが好きだから、ラーメンに関わる言葉が変化していくのはちょっと気になる。

「タレ」に対して「返し」と言う言い方をする。
本来は砂糖と醤油を煮返して馴染ませたものが「返し」。煮返すことによって醤油の角が取れて丸くなる。

煮返さなくても「返し」と言う名になることはある。「生返し」なんてのは醤油に火は入れない。だから本来「生返し」なんて言葉は矛盾を含んでいる。

とはいえ今のタレは、そばの返しのように煮返して熟成させるものもあるから必ずしも違うとは言えない。「タレ」を「返し」というのは理解の許容範囲内だ。

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仁阿弥道八展

サントリー美術館で仁阿弥道八展を見てきた。

仁阿弥道八(にんなみどうはち・本名高橋道八(二代))は19世紀前半、京焼「第二の黄金時代」の名工。
京焼は、上絵付けの技法を用いた陶器が多く、野々村仁清や尾形乾山の流れを汲んでいる。作陶する人によって、技法やデザインが多様なことが特徴。

関西では「仁阿弥」と呼ばれていて、自由闊達でありながら全く癖がない作風は現在も茶器として人気が高い。また、人物や動物などの像も製作しているがどことなくユーモラスだが、気品がある作品が多い。

美術展なので、リンク先の写真名称未設定-1をご覧いただく。緑などの寒色系の釉薬をつかった茶碗や、色絵の美しい煎茶道の急須など、陶器ににあまり関心がなくてもその造形に目を奪われることと思う。

まとまった形で展示されるのは珍しいそうで、ボストン美術館所蔵の「モース・コレクション日本陶磁」からも作品を展示している。

3月1日までの展示なので、時間があればじっくりと観賞するのもよい機会。

しかし、昨年の今頃を思うと、こういう美術展に行く時間が取れるだけでも、幸せだ。

外メシシリーズ2015~番外編~佛跳牆ラーメン1

乾物と干物。漢字で書けば「乾かす」と「干す」。どちらも水分を減らすことだ。だからほぼ同義語であるとしていいだろう。私の言語感覚としては、乾物は全く水分がなく、干物は幾分かの水分が残っていると意味だと捉えている。
私の定義からすると、アジやイカなどの魚介を開いて乾かしたものは干物で、大豆などの豆類や昆布、椎茸は乾物と言うことになる。スルメはどっちかと聞かれれば乾物だし、セミドライトマトはと聞かれれば干物である。

乾物とはそもそも、水分のある素材から水分を取り除き、完全に乾燥させて腐敗を防ぐのが目的だ。利点は保存できる期間の長さである。

水分、つまり水という物質はかなりいろんな物質を溶かすことが出来るので、元々の素材に含まれた成分などは素材に含まれた水分の中にあると言ってもいい。それが乾燥することで水分が抜け、あとには旨味、滋味などの成分だけが残る。乾物のもう一つの利点である。

ここで、天日で干すか乾燥機で乾かすかのどちらがいいかなどの方法論を追求して語るつもりはないが、天日で干したもののほうが、ゆっくりと水分が抜けていくだけ、成分は凝縮されるような気はする。

人間は水分がなければ旨味は感じない。乾燥した食品をそのまま口にして旨味を感じるのは、唾液の力であり、多くの場合、唾液の力だけでは旨味を抽出する前に飽きてしまうか、唾液が足らなくなって口中が不快になるかどちらかである。

乾物を戻すという技法は、水分を補うことで改めて成分を整列させる技法のことだ。水で戻すことで、乾物は旨味を蓄えた素材に帰還する。

フライパンに水を入れて加熱していくと、何カ所かに水分の塊が出来て最後に蒸発する。何カ所かに出来た水分の塊が成分を含んだものだとすると、成分は蒸発した水分から取り残されフライパンのあちこちに取り残される。フライパンを素材に置き換えてみると、乾燥した素材のあちこちに、分断された成分が残っていることになる。

その分断された成分をまとめるにはどうしたらいいか。再度成分を整列させる号令があればいいわけで、その号令に当たるのが水分となる。
そして、その水分に旨味成分は流出する。それがダシである。

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