捨てるのはまだ早い

営業職なら靴は大事なアイテム。ちょっとしたところではチェック対象。尤も前職はテクニカルも含みだったし、何より建築現場が多かったから、履きつぶすことの方が多かった。

たいして高い靴ではないんだが、履き慣れた靴の何足かの、かかとが減ったり剥がれたりなどしてきた。五万円の靴でも三千円の靴でも履き慣れた靴ってのが重要で、日本人特有の甲高段広に、上からの荷重が掛かった私の足に合う靴はなかなか無い。見ると無残にも足の裏部分がぱっくりと割れてるのもあったり、この体重を支えるなら然もありなんと思う。そこで修理に出すことに。

最初は、近所のリペアショップに持って行った。そしたら修理不能と。基本的に買うほど掛かればそりゃ修理しないよね。出も私、諦め悪いし、何よりも履き慣れた靴が愛しいw。

なので勤務先新橋の靴磨きショップへ。ここはリペアもやってるし、何よりも靴のケアのプロがいろいろと対応してくれる。急ぎのやっつけ仕事はしない、そこがいい。自分の持ってるアイテムに対する愛着は自分にしかわからないのだが、そこの琴線を上手に感じ取ってくれるのが何より嬉しい。

修理から上がって帰ってきた靴は、見違えるほど磨き上げられ、「まだおれ、働けるぞ」って靴の声が聞こえる気がする。そのあと履いて汚れた靴の状態になって、そうなるまでケアしなかったであろう自分が恥ずかしくもあるが、磨いてもらうのが楽しみでもあり、不思議な気持ちだ。

もし、手持ちに履いてなくて、でもケアしてまた履きたい靴がある方にはオススメ。単価は修理内容にも因るから差があるけど、満足できると思いますよ。

記憶の断片

自分の都合のいいように、記憶が消せたら、ずいぶん幸せだろうな。
楽しかった思い出に辛い思い出が重なって、どちらかを消したい…
大抵は辛い方だけ消せばすむ。でも、今の状況が延長線上にあるなら、まとめて消したい時もある。

こういうことを乗り越えていかないと成長しないんだが、今が精一杯だと仕方がない。

毎日毎日同じことを繰り返しても、どこかで少しずつ消しゴムをかけたり。
手に入れた分と同じ数だけ無くすものがあったとして、なくしたものに対する愛着。
無くしたくないものを最初からそっくり無かったことにすれば、哀しくならないのにな。

誰がいいとか悪いとかじゃなくて、そこを消して、新しく書き替えて…

無理だ。

自由に生きようと思えばできるのだろう。
それがなぜできない?

できない理由は手枷と足枷なんだろう。
年を取るほどに柵が増え、やり過ごすのもうまくなるが、飲み込めない異物の量も増える。

自分の歩んできた歴史や、心の表面を覆う苔を全て投げ捨てて、新しいシャツを着るのは、相当の勇気がいる。
その勇気を持つには相当のパワーが必要。

そんなパワーがあったらそもそも悩まない。
若いからこそ持ち得たものを、この年齢までキープしているやつなんてそんなにいない。

精神は老け込みたくない。
でもパワー出力は年々小さくなっていく。

新しいシャツを買っても、着ないうちにサイズが合わなくなる。そんなことの繰り返し。

手枷も足枷も断ち切って、一人の男だったと見つめ直す時間やチャンスは、いつの間にか目の前を通り過ぎた。
チャンスは見えなかったのではなく、見ようとしなかっただけ。
それを捕まえて実行するリスクに怯えていただけなんだろう。

捨てることはできないけど、自由にはなりたい。
この矛盾をどうすれば解決できるのか。どこかに答えはあるのか。

昔なら、探し回っていた。
少しずつずるくなって、やり過ごすことができるようになってきて。
それが年を取ったと言うことなのか。