記憶の断片

自分の都合のいいように、記憶が消せたら、ずいぶん幸せだろうな。
楽しかった思い出に辛い思い出が重なって、どちらかを消したい…
大抵は辛い方だけ消せばすむ。でも、今の状況が延長線上にあるなら、まとめて消したい時もある。

こういうことを乗り越えていかないと成長しないんだが、今が精一杯だと仕方がない。

毎日毎日同じことを繰り返しても、どこかで少しずつ消しゴムをかけたり。
手に入れた分と同じ数だけ無くすものがあったとして、なくしたものに対する愛着。
無くしたくないものを最初からそっくり無かったことにすれば、哀しくならないのにな。

誰がいいとか悪いとかじゃなくて、そこを消して、新しく書き替えて…

無理だ。

自由に生きようと思えばできるのだろう。
それがなぜできない?

できない理由は手枷と足枷なんだろう。
年を取るほどに柵が増え、やり過ごすのもうまくなるが、飲み込めない異物の量も増える。

自分の歩んできた歴史や、心の表面を覆う苔を全て投げ捨てて、新しいシャツを着るのは、相当の勇気がいる。
その勇気を持つには相当のパワーが必要。

そんなパワーがあったらそもそも悩まない。
若いからこそ持ち得たものを、この年齢までキープしているやつなんてそんなにいない。

精神は老け込みたくない。
でもパワー出力は年々小さくなっていく。

新しいシャツを買っても、着ないうちにサイズが合わなくなる。そんなことの繰り返し。

手枷も足枷も断ち切って、一人の男だったと見つめ直す時間やチャンスは、いつの間にか目の前を通り過ぎた。
チャンスは見えなかったのではなく、見ようとしなかっただけ。
それを捕まえて実行するリスクに怯えていただけなんだろう。

捨てることはできないけど、自由にはなりたい。
この矛盾をどうすれば解決できるのか。どこかに答えはあるのか。

昔なら、探し回っていた。
少しずつずるくなって、やり過ごすことができるようになってきて。
それが年を取ったと言うことなのか。

報告書の解釈

何らかの道具を使って、何らかの行為をする。
そこで事故が起きる。負傷者がいれば現場検証をすることになる。

現場検証を行って、その器具には異常がないという場合、二通りの考え方ができる。

  1. 誤用した場合
  2. 全くの想定外の事象が起きた場合

大抵メーカーに対して上記の報告が来た場合、1を想定する。
2のようなリスクはすべてつぶしているはずだからだ。
ところが善意の第三者の報告書によっては、解釈が異なってくる。

果たして本当に正しくその道具は使用されたのか?

この部分は大抵報告書には書かれていない。
通常の使用方法で使用した場合起きえないことがあって、その事象だけがクローズアップして報告される。製造者の責任問題もあるから、慎重に書かれなければいけない。

読者がその業界人なら、その道具の優秀さなどを知っていて読むから問題はさほどない。が、一般人が読む場合どうだろうか?

リスクをすべてつぶそうと考えるのは、機器を製造する上で当然の考えなのだが、また完全につぶすことができないのも事実なのだ。
日本の技術力を持ってしても、安全率を3にしても5にしても、不測の事態で事故は起きる。

善意の第三者によって書かれた報告書が、その内容によって曲解されてしまうことがどれだけ不幸なことか。

詳しい内容が書けないのでわかりにくいが、そんなことを考えた1日。