幽けき光

あそこに見えるかすかな光が
何よりもうれしくて
それだけで満たされて

植物が伸びていくように
その方向に歩いていく

確率が0でなくなった瞬間の
湧い出る希望と
一つの安堵感

もう初夏の日射しかもしれない
季節の中で また明日
かすかな光を目指して

生きてくってそういうことなんだろう

まあ、あれだ。

どんな有益な情報であったとしても、掲示板系のまとめサイトからの情報って信用できないんだよな。

表現方法のキツさとか、煽るような文句とかそれだけで拒絶反応。仲間内の会話ならまだしもね。そういうことをシェアしまくったりするのも、信用できないんだよな。

ネタでやってるうちはいいんだよ。楽しかったりすることもあるしさ。ただこういう災害とかの状況で、揚げ足とるような書き込みとそれを流布するってのは、デマ流すヤツと同罪じゃないの?

シェアする本人が吟味して、コメントつけるならまだしも、ただ流しまくるのって、確信犯かただの愚かなヤツだろ。

ましてやそれに便乗して、特定の団体を叩いたりするのは、なにをか況んや。ほかにすることあんだろうになあ。

オイラの周囲にそういうヤツがいないことを祈るよ。災害で苦しんでる方々にできることしようよ。そんなワンクリックでできることじゃなくってさ。

訃報と感情

だいぶ前の話。
小学校中学校高校と先輩だった人が亡くなった。僕より1歳上。
高校の頃からもうお付き合いはないが、ご近所だし、とお通夜に出かける。

仕事の関係で、お通夜が終わってから駆けつけた次第(知ったのは当日の2時頃だし)で、もう誰もおらず、祭壇の前の所作も解らず。
ご両親がいろいろと小さい頃からの思い出とか語ってくれた。気丈に振る舞われていてそれがかえって悲しくなった。

しかし、悲しいと思ったのはご両親にお目にかかれたからで、その方が亡くなられたことには特別な感情は起こらなかった。そのあと考えたのは、自分の感情の内に本当に悲しいと思う部分が、もしかしたらポッカリ欠落してるのではないかと。

寧ろ、人が泣いてるのを見てああ悲しいことなんだと思う自分が少し怖くなった。私はすごく冷たい人間なのではあるまいか。

そのあといくつかの永の別れがあって、その度に戸惑いがあって。

でも一昨年義母が、昨年友人が、亡くなって、亡骸と対面したとき、溢れる感情を抑えられなくなっていた。悲しい。たった一言で言えばそれだけ。

ああ、私にも感情がちゃんとあった。そう思った。
やっぱり、壊れていたんだな。麻痺していたんだな。去年の今頃がピークだったな。

心はまだまだリハビリ中ですが、毎日定時に帰れる有り難み、感じています。