若冲と蕪村

与謝蕪村という俳人には、中学か高校かで触れた覚えがある。あくまで俳人としてだ。
その蕪村が後年、絵師として絵画を描いていたということを、浅学にして知らなかった。
その蕪村と同年に生まれた伊藤若冲という絵師がいて、この人の描く煌びやかな花鳥図は目にしたことがあるが、二人に交流があったのかどうか云々ということは、これまた浅学にして知らなかった。

サントリー美術館に「若冲と蕪村」展を見に行った。金曜日の夜だったが、観覧者も多く、若冲に興味がある人や蕪村に興味がある人がこんなにいたのかと、軽い衝撃があった。
作品的には、両者が共通して影響を受けた中国・朝鮮絵画を手本としたものや、大らかな筆致の水墨画など、似た部分もある。

若冲で感動したのは、手本とした絵画に、この時代ではまだ珍しいと思われる、奥行きを感じさせる遠近感。今にも羽ばたきそうな鶴が絵の中に違和感なくたたずみ、それが華やかな色であったり、時には墨の濃淡だけであったりと、豊かに表現されている。

また、蕪村はシンプルな構図と線で表現しているが、俳人としての感性もそこかしこにちりばめられていて、作品の膨らみをたっぷりと感じられる。

二人に共通する、洒脱さも対比の妙があり、接点があったかどうかは不詳だが、掛け合いのような感覚を共有できる。

圧巻の蕪村の「山水図屏風」と若冲の「象と鯨図屏風」だけでも、充分に世界に浸れるので、お時間があれば是非。5/10まで。

禁断の裸体

渋谷のシアターコクーンで「禁断の裸体」を見てきた。

妻を亡くしたエルクラーノ(内野聖陽)は、息子のセルジーニョ(野村周平)と3人の独身のおばたち(木野花、池谷のぶえ、宍戸美和公)と暮らしている。狂信的なクリスチャンである4人に異常な禁欲生活をエルクラーノは強いられている。

少しやさぐれた弟のパトリーシオ(池内博之)の悪計で、娼婦ジェニー(寺島しのぶ)を紹介されたエルクラーノは、最初こそ戸惑うものの次第に愛欲に溺れていく。

物語は周囲に翻弄され続ける不器用で情けない男・エルクラーノを軸に進んでいく。娼婦・性的不能・男色と立て続けの性描写、濃厚な絡みとこれだけ書けば立派なポルノグラフィなのだが、ここに宗教が絡むと味わいが変化する。

キーワードは「脱ぐ」。初っぱなからパトリーシオが全裸。しばらくしてエルクラーノが全裸。そしてジェニーも全裸。舞台の上でここまで潔いと唖然とする。

ベッドの中のちょっと間抜けなシーンなど、誰しも経験がありそうなことを描いていき、エロティックコメディとまでは行かないが随所に「大人の」笑いが入る。

ジェットコースターのように展開する場面は、演技力の高い出演者たちによって奔流のように進行していき、息をつくのを忘れるほどのスピードだ。

特に主演の内野聖陽のコミカルなまでの情けなさや、寺島しのぶの悪女淑女綯い交ぜの女っぷりが溢れんばかりの存在感となって、私の頭の中を席捲した。

寺島しのぶにはあまり興味がなかったが、これを見て思わず惚れ込んでしまった。

演出の三浦大輔氏の本領発揮とも言うべきで、再演希望の舞台だ。

明日をになう新進の舞踊・邦楽鑑賞会

邦楽・・・と言えば私くらいの年代には洋楽に対する邦楽という意味にとることが多い。
いまはJ-POPなんて言い方をするが、昔は洋楽、特にアメリカ、イギリスの音楽を日本に取り入れて、日本人に合ったアレンジをしたものを邦楽と言っていた。

演歌というジャンルがあるが、これはまた邦楽と言われたものとも違い、四七抜き音階といわれるペンタトニックスケール(五音音階)であり、つまり、ドで始まれば4度のファと7度のシを使わない音階を使った音楽である。

民謡や、琉球音楽など、これも含めて邦楽だと思うのだが、日本の音楽の授業はピアノなど平均律で語られるものがほとんどで、どちらかと言えば西洋音楽に近いと言える。

「明日をになう新進の舞踊・邦楽鑑賞会」と言うのを見てきた。舞踊、邦楽という専門の世界を初めて鑑賞した。

ここにある邦楽は前出のものとは違う。日本の古来からある音楽だ。三味線や笛の音色が西洋律にはない表現を紡いでいく。

以前に三味線の楽譜を見せてもらったことがあるが、見慣れないとチンプンカンプンだ。ギターをちょっとかじってみると、TAB譜というのがあるのだが、それと似てると言えば似ている。

驚くべきは演奏中に糸巻きを回してチューニングを変えてしまうこと。「本調子(ほんちょうし)」「二上り(にあがり)」「三下り(さんさがり)」という調弦法だそうだが、絶対音感がないとできない相談だ。

三味線と言えば津軽三味線がポピュラーなのかもしれない。だが、そうではない三味線もなかなか味わいが深く、まさしく音色とも言うべき色がある。

それに合わせた舞踊というのも、立ち居振る舞いから全てがストーリーになっており、心の奥底にある日本人好みの予定調和が、巧みな表現力で語りかけてくる。

今回の公演は、「神田祭」という素踊りから始まった。素踊りというのは衣装などをつけずに、紋服で踊る舞踊。祭礼の賑わいを背景に江戸の祭り、風俗や下町情緒を表した作品で、今回はひょっとことおかめの面で、男女の機微を演じ分けていた。

続いて新内「鬼怒川物語―土橋の段」は、元々の二つの話を一つにまとめた作品で、浄瑠璃の表現の豊かさを味わった。色気のある人間国宝の声が、話の流れに緩急を付け、これまた予定調和で結末が見えているにもかかわらず、引き込まれていく。

続いての舞踊、一中節「家桜傾城姿」は、演者自身の振り付けと演出が秀逸。傾城とは城を傾けるほどの寵愛を受ける美女のことだが、その悲恋を桜の木の下でファンタジーのように浮かび上がらせる。

そして結びは長唄「二人椀久」。椀久と傾城・松山の恋を、バラエティあふれる曲調で聞かせる。長いから長唄なのだと解説の方が話していたが、熱狂と激情と静寂が、いろいろな場面で顔を出す展開に長さを感じさせない。

一芸という言葉で括れば一言で終わってしまうが、ここまでの芸術に育てるには並大抵の修練ではとうてい届かない。そして、根底に流れるスピリットはジャズにも通じるものがあり、魂を揺さぶる。

知らずに終わるか、知って味わうか。物事は知って味わう方が豊かになるとは思わないか。