あの日の2時46分

そのとき私は、千葉市幕張の某中学校の工事現場の事務所のプレハブの上にいた。
貧弱な鉄骨階段をカタカタと揺れが上ってきた。
地震嫌いの私は、一緒の場所にいた顧客に、「地震かも」と告げた。
「取り敢えず下に降りよう」と促してグラウンドにおりる。
工事現場の人々が次々とグラウンドに降りてきた瞬間、そいつはやってきた。
地鳴りをさせながらうねる地面、駐車場の車が荒れた海の上の船のように上下左右に激しく揺れ、程なくゴム板の上を歩くような浮いた感覚に襲われた。

自分の居るグラウンドに見る間に亀裂が入り、外の道路はアスファルトが隆起して崩れ、水が噴き出した。
液状化現象が見る間にあちこちで起こり、校舎を保護するために建てた防球ネットの支柱が傾いた。
校門付近は凸凹になり車の出し入れは不可能に、あーこれは大地震だとやっと思い始めたところで1回目の揺れは収まった。

各々が呆然とする中、急ぎ撤収を計る。
顧客が駅まで運んでくれるというのだが、車を出すことができない。材木や、いろいろな材料を校門周囲の凹んだ部分に詰め、何とか車が通れるように。
挨拶もそこそこに車に乗り込む。まだそれほどの渋滞はなかった。

顧客は九十九里方面の方なので、最寄りのJR駅まで送っていただく。信号待ちをしている間に2回目が来た。実際、この時の方が気分的には怖かった。

ラジオのアナウンサーが努めて冷静に津波の発生について述べている。件の九十九里の方に「早く帰った方がいい」と奨め、下車した。

当然のことながら、鉄道は完全停止している。暫く待ってみても動く気配はない。誰もが経験したことのない災害に対して、どうしていいかわからなかったのだろう。

家族はどうしているのか。工事に行っていた部下はどうしているのか。社内は皆無事だったのか。果たして私は家に帰れるのか。頭の中をいろいろな想いが瞬時に錯綜する。

30分ぐらいしてから歩くことにした。歩きながら携帯で連絡をするも、どこにも繋がらない。線路沿いに歩いて行けば、鉄道が動き出したときに乗車できるかもしれない。

幕張駅からできるだけ線路に近いところを選んで西に向かう。畑の畦をショートカットさせてもらったり、かれこれ3時間ほど歩いて、船橋駅付近まで来た。携帯を諦め公衆電話から自宅の安否を確認する。あの電話が繋がった瞬間の安堵感は、ずっと忘れないだろう。

恐怖感はまだまだ続いており、すれ違う人の携帯から緊急地震速報が間断なく流れている気がした。船橋駅に回ると、改札のシャッターを閉めるところだった。そこにいた人は閉め出され、コンコースにあふれている。鉄道が動いていないことを確認して、再び歩き出す。

国道14号の跨線橋は当時掛け替えの途中で、かなり老朽化が進んでいたように思う。歩いているうちに橋が落ちたらと考えると、怖くてそちらを回れない。山側を歩いて14号に回る。

途中何カ所かのコンビニエンスストアに立ち寄る。ある場所の店は、無償でコーヒーを配布していた。こういう気配り目配りにどれだけ勇気づけられたことか。

千葉方面から西に向かう、つまり東京に向かうのは少数で、狭い歩道は東京から千葉に向かう人々でいっぱいだ。その中を縫うように西に歩いて行く。途中の市役所まで来ると、ロビーのテレビには製油所が炎上している画像が映し出されていた。

ひたすら恐怖感と戦いながら、やや道が広くなった国道までたどり着いた。最後の難関の橋梁を歩く。5人位の単位で連なっている人々が、少人数の私たちを飲み込むように、歩いている。車は大渋滞で全く動かない。

橋を渡り終え、自宅方向に向かう都道を曲がったときに、遠くからでも見える大きな赤提灯があった。赤提灯までわずか500mくらいなのだが、とてつもなく長い時間歩いたような感じがした。

店を除くと大将がいて、二言三言挨拶を交わす。さすがに営業はしていないが、赤提灯が目印になればと出してあったそうだ。涙が出た。無事に帰ってこられた嬉しさが溢れた。

家に着くまで約7時間30分、30キロ弱を歩いて帰った経験だが、フルマラソンを走る人もいるからたいした距離ではない。

ただ無事で帰れたことだけが嬉しかった、途中の人々の優しさが嬉しかったあの日。

あれから4年。元に戻るにはまだまだ遠い。

 

コメントは停止中です。