国立劇場に落語を聞きに行った話

国立劇場に落語を聞きに行った。この番組の収録。
ただ、全部が放映されるわけではないようなので、ネタバレ込みで記録。

「古着買い」
春雨や雷太

ここには間に合わず聞けなかった・・・

「星野屋」
春風亭一之輔

あらすじ

星野屋と言う旦那の話。
三十両の金を囲っていたお花にやって自分は吾妻橋から身投げするという旦那。聞けば身代が傾いているとかいないとか・・・もう手切れにしたいとそれならいっそのこと、おまえと心中したいがと持ちかけると、お花さん渋々了解するが心中する気なんざさらさらない。

旦那が大川に飛び込むと、手も合わせずそそくさと自宅に。
そこに旦那にお花を世話した男(名前失念)が現れて「たった今、星野屋のだんなが血だらけで夢枕に立ち、『お花にと心中したんだが、あの女は薄情でおれが飛び込んだあとも手も合わせやしないで心中もしねえ。これからあの女を取り殺す』と言いなすったので、直接お花の所へ行ってくれとお願いしたところだ」と。

お花は最初はシラを切っていたがついに一件を白状してしまう。
「だんなを成仏させるには、てめえが尼になって詫びるほかねえ」と言うので、しかたなく黒髪をブッツリ切って渡したとたん、入ってきたのはほかならぬ星野屋の旦那。

なんと心中は、心根を試すためのお芝居。
「ざまあ見ろ。こんな薄情な女とはこれで縁切りだ。」

しかしお花、強かなもので、「おあいにく。かもじを切っただけさ」と。

男、「ふてえ女だ。やい、さっきてめえがもらった三十両はな、贋金だ。後ろにお手々が回るぜ」と追い打ちをかける。

お花がびっくりして金を返すと、「まただまされやがったな。だんなが贋金を使うわけないだろうが。そんなことをしたら旦那のお手々が後ろに回らい。その金は本物よ」と、ここまでは旦那優勢。

「えー、くやしい」とすごく悔しがるお花。
そこでお花のお袋さんが「あー、三枚くすねておいてよかった」

もともと伝わっている話とやや脱線するが、男とお花のやりとりが丁々発止までは行かないが間抜けな喧嘩でいい。そこから生まれるサゲの魅力がこの話の肝だろう。一之輔のお花は、現代っぽい雰囲気もあるがなかなかの色っぽさで、所作に深い芸を感じる。しかし、髢がわからないと、楽しめないだろうなあ。

「盃の殿様」
柳家喜多八

あらすじ

参勤交代で江戸表にいる九州の殿様(黒田家か?)。退屈で仕方がない。
仮病を使って外に出たいのだが、古株の側近に窘められる。

無理やり薬をのませると、効かないといいまるで子供のように駄々をこねる。これはいかんと茶坊主が、お気晴らしにもなろうかと、吉原の情報など入れたものだから、さあたいへん。

根掘り葉掘り聞いた挙げ句、乗り込んだらたちまち、吉原の虜になり、毎日毎日通い詰め、花扇という花魁に入れあげる始末。ついには殿様が助六スタイルで現れる羽目に。

側近は苦虫をかみつぶし、止めようとするが、殿様、すぐ拗ねて駄々をこねるので、始末に悪い。

もはやでれでれのでれ助となった形見の襠を家来に着てみろ、参勤交代でお国入りするために、江戸を離れなければならなくなった。こればかりはしかたがない。最後の晩は花扇と盃で一献酌み交わす。東海道を西に下り九州に帰る道中も、思い出すのは花扇のことばかり、当分会えないと思えば愛しさも一入。形見の襠を家来に着させて真似事をさせたり、側近大困り。

殿様、国に着いても花扇のことが忘れられず、程なく逢いたくてたまらなくなり、三百里を十日で走る家中で一番足の速い足軽に命じ、江戸の花扇に盃を届け、「返盃」をもらってくるよう言いつけた。

花扇は感激して一気にのみ干した上、改めて殿さまにご返盃をと頼む。
殿様の酔狂のために三百里を往復する羽目になった足軽はもう目は白黒、足はガクガク。

しかも急ぐあまりに途中の箱根山で、大名行列の供先を横切って捕らえられてしまう始末。あわや手打ちかと思われたが、申し開きの場を与えられ、斯く斯く然々と事情を説明。すると粋な殿様もいたもので「大名の遊びはさもありたし。そちの主人にあやかりたい」とその杯で一献。

命からがら国許に戻り、殿様に報告すると「お見事なお手元じゃ。もう一献と申してこい」と。ひどい殿様だ。

足軽、どこの大名だったか聞き忘れたのでどこを尋ねてもわからない。方々走るうちに明治維新に。

足軽が国許から東上し、小倉から播磨、大阪京と抜けて鈴鹿を超え、桑名から熱田、三河遠江駿河相州小田原と抜けて江戸に入ってからのトントントーンと街の名前を並べていく件のスピード感が堪らない。上野のお山を右に曲がりなんて情景が浮かんでくる。サゲの明治維新はそこまで長いこと探してたと言うことなのだが、想像力が豊かでないと楽しめないだろう。

ここで中入り。

「居酒屋」
古今亭志ん橋

あらすじ

縄のれんに醤油樽、番頭さんと小僧だけという居酒屋に、主人公の酔っぱらいがふらふらと入ってくる。

酒が酸っぱいと最初は文句たらたら、小僧さんに無理やりに酌をさせたり、おめえの指は太くて肉がいっぱい詰まってカニだったら喜ばれるとか、からかい始めるうちにだんだん酔っ払ってきてエスカレート。

肴は何ができると聞かれて、小僧さんが壁書きに書いてあるというと、意地悪な酔っ払い、「口上てえのをもってこい」とか、「『とせうけ』てえのは何だ」とか。純朴な小僧さん「あれは『どぜう汁』と読むので、濁点が打ってあります。」と。ここまでならどうってことないのだが、そこは子供、余計なことを言っちまう。「イロハは、濁点を打つとみな音が違います」
酔っ払いからむ。「それじゃあ、イに濁点が付けば何と読む、ロはどうだ、マは? 」と濁点が打てない字ばかり持ち出す。

今度は「向こうの方に真っ赤になってぶら下がっているのはなんだ」
と聞くので、「あれはゆで蛸です」と答えた小僧さん、またしても一言余計に「茹でると赤くなるんです」と。酔っ払い、それを聞いて「お稲荷さんの鳥居はどうやって茹でた」と訳のわからないからみ。

しまいに、「その隣で逆さまになっているのはなんだ?」と聞かれた小僧さん「あんこうです。鍋にします」と
「それじゃ、その隣に鉢巻をして算盤を持っているのは?」「あれはうち番頭さんでございます」「あれを一人前持ってこい」「そんなものできません」「なんでできねえんだ」「あれは半人前にございます」

ともすれば粘着質になりそうなやりとりを丸め込んで、軽妙洒脱さと惚けた味がいい具合に馴染んでいる。所々に入る現代風のツッコミがいいアクセント。マクラのマニアックさも抜きんでていた。他のお話も聞いてみたい噺家さんの一人だ。

「薮入り」
橘家圓太郎

あらすじ

長屋の熊五郎、一粒種の亀(子供の名前ね)を奉公に出して三年。亀が初めての藪入りで帰ってくる日が待ち遠しくてそわそわそわそわの熊五郎。

まだ夜中の三時だというのに、飯は炊けたかとか、奉公先じゃあったかいお飯は食えねえんだとか全然落ち着かない。食いたいものも食えないからと、「野郎は納豆が好きだから買っておけ。」とか「浅草で洋食を食わせてやろう」とかオムライスがどうしたとか、きりがない。

時計の針の進みが遅いと、一回り回してみろとか、帰ったら品川の海を見せて、川崎の大師様へ行って葛餅買って、あっちの蜜は美味くないとか江ノ島やら鎌倉やら佐渡の金山やら鳥取の砂丘やらと、果てしなく妄想がヒートアップ。そうこうしているうちに夜は明けはじめ、箒がどこにあるかも知らないのに掃除を始める始末。

夜が明けたら明けたで「まだか。アイツは一番若ぇから、みんなが帰ったあとで番頭に意地悪で用を言いつけられてるんじゃねえか。帰りたくても帰れねぇんじゃねえのか、よーし、店に乗り込んで番頭を・・・」と、上を下への大騒ぎ。

そのうち声がしたので出てみると「ごぶさたいたしました。お父さんお母さんにもお代わりがなく」とすっかり成長した亀の姿。熊五郎びっくりして、「今日はご遠方のところをご苦労様で」などと取次筋斗。

実際は嬉しくて顔も見られないのだが「風邪引いて寝込んだが、おめえの手紙を見たら途端に治ってしまった」とかもうベタベタ。亀が小遣いで買った饅頭を土産にもらうと、「もったいねえから神棚に上げておけ。子供の御供物でござんすって、長屋中に配って歩け」と、大喜び。

亀を湯屋にやって、さあ戻ったら親子水入らずなんて思っていると事件発生。亀のがま口の中に、五円札が三枚も入っているのをかみさんが見つけたことからまたもや大騒ぎ。

「子供に十五円は大金で、そんな額をだんながくれるわけがないから、ことによると魔がさして、お店の金でも……」とあらぬ方向にかみさんが走り出したものだから江戸っ子で単純な熊五郎、逆上して亀を疑い始める始末。

帰ってきた亀を、訳も聞かず責め立てると、「このごろペストがはやってるので、鼠を獲って交番に持っていくと一匹十五円の懸賞に当たるというからみんなで取ったら懸賞が当たった」と泣きながら説明する亀。

「だんなが、子供には多すぎる大金だからと預かり、今朝渡してくれたのだ」「おとっつぁんに渡すと使っちまいそうだからおっかさんにそーっと渡そうと思ってたのに」と訴える。

自分が逆上して責め上げたのを棚に上げて「てめえが余計なことを言いやがるから、気になるんじゃねえか。」と、かみさんを責めるが、そこは息子かわいさ、まじめに働いている息子に一言、「この後ともにご主人を大切にしなよ。これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」と。

大ネタなのだが時間を感じさせない。熊五郎の滑稽なほどの親バカぶりを、丁寧な描写でホロリとした温かい気持ちにさせる件はこの噺の噛みしめたい味わいの一つである。後半の一変ぶりも短気でユーモラスな江戸っ子の特徴が利いていて、一気に持ってかれる。

各噺家さんの個性がたっぷりと詰まっていて楽しい会だった。サゲにもいろいろあるが、わかりやすい地口オチの他に、想像力と知力をはたらかせて噺を締めくくる話術、そこには長い間(と言っても、ここ300年以内なのだが)の日本の人々の営みを紡いだものが形となって残されている。肩肘を張らないで聞けるのも落語の良さであるが、落語は教養を験される話術の祭典でもあるのだ。

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