音楽の楽しさ素晴らしさを改めて感じた日

音楽の楽しさってなんだろう。
好きなアーチストのライブに行って、いわゆるノリのいい曲で自然に身体が動くのもよいだろうし、美しい声の歌手のその歌声を堪能するのもよいだろう。

暮れになると交響曲第9番を聞くことが多い。第九という名で親しまれてもいる。また、第九を演奏する音楽家または楽団も多い。第九という大作を聞くまたは演奏することによって得られる、ある種の達成感に満たされる独特の感覚が、日本人の奥底にすり込まれているのかもしれない。

私はそれほどクラシック音楽に造詣が深いわけではなく、第九にも格別の興味があるわけではない。クラシックを演奏する奏者は、幼少の頃からお稽古事として管楽や弦楽に勤しんで来ている方々で、そういう方々が譜面通りに演奏することによってできる完成形がクラシック音楽だという偏見を持っていた。

なので、誰がどのように指揮をし、どのような楽団が演奏しようとそれほどの差はないと思っていた。そんな私が、昨日第九を聴きに行った。

招待してくれた方が、どこで何をという情報も含めて一切の予備知識を私に入れなかったので、ただ誘われるままについて行った。会場に着いて初めて、第九のコンサートなんだと知った。

指揮者は佐渡裕氏。日曜の朝の音楽番組でみせる、柔和な笑顔と機知に富んだ会話が魅力の指揮者だ。佐渡氏の前説が始まり、コンサートの幕が開く。佐渡氏の前説は、あまり第九に関心のない私にも非常に解りやすく、かといって過剰でもない、いわばアペリティフのような感覚で、ある種の緊張感に包まれた私を寛がせてくれる。

今回はケルン放送交響楽団の演奏による交響曲第9番で、佐渡氏の前説によれば、東日本大震災の直後、被災した日本に対して、何か音楽で心を支えることはできないかと申し出られ、デュッセルドルフでチャリティコンサート行われた楽団だそうだ。

佐渡氏の指揮はテレビでしか見たことがない。また、前述のようにクラシックにそれほどの興味を感じたことがない私だったが、その会場の醸し出す空気と佐渡氏の話術、そしてこれから始まる凛とした緊張感に心が昂ぶるのをおぼえた。

演奏が始まる。第一楽章は前説で説明されたが、ニ短調の主題がメイン。テンションの高いコードが続くのだが、それがある種の心地よさを伴って、私を誘う。音の良さ、確かさは技術に裏打ちされるものであるのだが、それだけで語るには、自分の体験の貧弱さを露呈させてしまうようで、我ながら情けない。細かいグラデーションのように高まる弦の音が、いつしか目の前の風景を一変させる。

第二楽章は主体が3拍子なので、3連音符が続く感覚のニ短調である。私は打楽器というのは単なるリズム楽器で、ティンパニの音色などアクセント程度にしか考えてなかった。しかし、この旋律の中での存在感、調律された音色を聴くと、自分の不明にただただ恥じ入るばかりだ。第一楽章の主題を根底におきながら、まだストーリーが途中であることを一瞬の休符でまとめ上げる。休符にこんなに引き込まれるとは、新鮮な世界だ。

第三楽章はゆったりした旋律が流れる長調となる。ゆったりと眼前に広がっていく景色を、今度は第四楽章の主題を先取りし、歓喜の前の気持ちの高ぶりを後押しするかのように管楽器が響き、弦が揮え、そして楽しみは翌日なのだといわんばかりに、子供を寝かしつけるように、三連音で収束する。各楽器の存在感が、私の拙い音楽経験に「どうですか、音楽はいいですよね」と語りかけてくる。

そして第四楽章の合唱で、歓喜は爆発する。独唱が今までのテーマを打ち壊すかのように始まり、そして主題が浮かび上がる。私が音楽をちょっと弄っていたころ、音楽とは、詞があってそれに曲が付いてという、いわば詞によるメッセージを伝えるための歌としての手段であると思っていた。それは間違っていないとは思うのだが、今回、改めてこの第四楽章を聴いて、それが一つの方法に過ぎないと言うことを思い知らされる。

爆発する歓喜に歌詞はもちろんあるのだが、歓喜を表現する場合に、歌詞はその一手段にしかなりえない。波状に押し寄せる混声、主張の強い独唱、それに絡みつく演奏の旋律、そしてそれを紡ぎ上げる指揮者、渾然一体なのではあるがけっしてカオスではない、人の心理の奥底、魂を揺さぶる何かがそこにはある。
そしてそこには幸福を求める人々の祈り、明日への希望が込められている。

音の重なりの美しさに耳と心は潤いに満ち、ステージを凝視していた眼は、瞬きするほども惜しいほどだったから、すっかり乾いていた。
70分がとても短く感じて、同じ姿勢でいたにもかかわらず身体の不自然な凝りもなく、不思議なことに眼の乾きを感じていたにもかかわらず涙が零れていた。

一体感という大きな括りの中で、各パートがいろいろな絵を描き、それを俯瞰で見つめる指揮者がいる。そしてそれは聴くものに感動を与えるためのものではなく、聴くものと一緒に祈りを捧げ、明日への希望を呼び起こすための大きなリングであることに気付く。

佐渡氏が前説で、聴いた人の数だけ、第九の解釈はあると言っていた。私もそう思う。ただ、けっして大作を聞いた達成感ではない、そんな陳腐な思いではない、味わったことのない世界がそこにはあった。

音楽の楽しさってなんだろうと冒頭に書いた。好きな音楽だけを聴くのもいいかもしれない。ただ、伝え継がれてきているものにはそれだけの理由がある。そしてそれを伝え継ぐものがいる。音楽の楽しさのある部分は間違いなくそこに有り、そしてそれでいいんだ。

今度は指揮者の違いによる音楽の楽しさも感じてみたい。ここに招待してくれた、新しい世界に蒙を啓いてくれた人に深く感謝する。

コメントは停止中です。