肉を食らうあれこれ

先月は何故か肉食の多い月で。
お誘いがあって行ったお店だったり一人焼き肉だったり。
そんな諸々を徒然に。

僕は基本的に食べ物にA級もB級もないと思っている。
あるのは、旨いものか不味いものである。

150円のシュークリームが旨いこともあれば、1万円の寿司が不味い場合もある。対価に含まれるものの中には、値段相応のホスピタリティがあるはずで、店に行く以上、期待値の中にホスピタリティは含まれる。

何度か繰り返していく店の場合、その店のホスピタリティは意識の中に織り込み済みである。そこにあるメニューの中身は見当が付いているだろうし、今日は何を食べようか、何を飲もうかと考えながら店に向かう。

そしてその食事は当然のことながら、過度の期待はなくむしろ安心感を伴う食事となる。これはモノを食べるに当たって重要なポイントの一つである。

たまにしか行かない店の場合、いわゆるハレの日の食事だった場合が多いのかもしれないが、記憶を辿ったときに好ましい記憶があれば味も甦ってくるし、「ああ、また行きたい」と思うであろう。そしてそういう店を再訪した場合、初訪とは違う記憶の上書きによって、次回の訪問予定も変わってくるだろう。

本来なら旨いものが訪問店にあればそれでOKなのだが、そこにホスピタリティを上回る旨いものという条件が加味されれば当然回数は増える。ホスピタリティは不快にならない程度あればよい。

問題は初訪の場合だ。初訪というのは、ただでさえ緊張感が漂うというマイナス要因を店に対して持つ。緊張感を打破するような期待感がそれを上回ってこそ、旨いものを喰う準備になる。

ご招待いただいたときに、前知識はある程度仕入れた方がいいのかもしれない。礼を欠かない程度にその店の最低のルールは知っていた方がいいだろう。

しかしその情報が、ベールの内側だった場合、さらに外に出ている情報が一方向の情報だった場合、それは宗教団体と変わらなくなる。ある一定の方向しか向かない、そんなお客ばかりの店はよほどの興味がわかない限り、敬遠してしまう。

もっとそういうことを許せる、広い心を持って楽しめればいいのだが、生憎とそういうバランスシートの上に僕は乗っていない。そこには、借りも貸しもなく旨いものを喰わせようとする心意気があって欲しいから。

店側としては、緊張感を解くことは重要なファクターだと思う。よく言われるガンコ親父の店でさえ張り詰めた緊張感はあるものの、それなりにモノを食べる環境にはあって、それを醸し出すのは周囲の客であったり、店の造りであったり、そしてその緊張感を上回る旨いものであると言えよう。

巷間言われる、味がよくわからなかったほどの緊張感は、例えば前知識の肥大による緊張感であったり、経験の少なさによる緊張感であったり、独特の作法による緊張感だったりする。

前段のどれもが重なったら、それは旨いものを喰う環境とはならない。たとえそこで最高級の肉の部位が出たとしても、やはり食べる楽しみとしての期待値は下がる。

そういうことを気にしないで食べられる、言い換えれば環境に左右されないで食べられるというのは、実験室で白衣を着て食べても大丈夫な人なんだろうと思う。

僕は、大丈夫な人である部分も持っている反面、シチュエーションもこだわるタイプだと思っている。モノを喰うと言うことは、食べるモノ自体が旨いことは大事で、次のファクターとして誰と食べるかが重要で、そしてそれを演出するギミックが組み合わさるものだと思っている。

旨いものを喰わせようとする心意気は大事なことだと思う。客を限定するなら、驕慢にならずに真摯に向かってくれればいいのにと切に思う。

ま、肉に限った話ではないんだが。

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